COLUMN コラム

【自活研・小林理事長の自転車コラムその36】~ナンバープレートについてもう一度考える~

一時期マスメディアをにぎわせた東京都の自転車ナンバープレート構想は、条例案の見送りで初戦はあっけなく終わった。最初から相当に無理のある話なので、整合性のある立法は難しいだろうとは思っていたが、ああ良かったと安心するのはまだ早い。自転車にナンバープレートを付けようという発想と、これを真面目に後押しする人たちを醸成する土壌はまったくと言っていいほど改善されていない。こうした突飛なアイディアに飛びつかざるを得ないほど、自転車を取り巻く環境の一部は深刻なのである。条例案の見送りは事態が改善されたからでなく、方法論に無理があるので当面は先送りされただけであって、問題の背景が続く限り形を変えて登場してくるかもしれない。背景は一言でいうと、クルマ、特に路線バスの前に飛び出してくる自転車の増加である。
言うまでもなく、わが国ではこの40年以上の間、自転車が歩道を走ることが常識化され、あたかも足の速い歩行者のごとくに扱われてきた。それがバブルの崩壊、健康や環境意識の高まり、リーマンショック以降の経済の低迷、東日本大震災と政治の余りな無能ぶりの露呈などによって生活防衛を考えた国民が自転車利用を加速させ、歩道を通行しているから出会い頭の事故を誘発する実態が明らかとなってきたため、本来の車道走行に戻そうという動きになった。自転車は車両、という警察庁の通達は国民に驚きを持って受け取られたが、いったん車道を走ってみると実に快適であることに多くの人が気がついてしまった。歩道と違って段差は少なく、じゃまな歩行者もいない。東京では震災後の地下鉄などの減便がこれの拍車をかけた。
道路交通法は自転車を車両と定義しており、歩道通行を例外的に認めると定めているから、正しく本来の形に戻るだけのはずだった。ところが、永年染み付いた勘違い常識の歩道通行が一朝一夕に正されるはずがない。歩道を走っていた人々は、群をなす歩行者に行く手を遮られると「本来の車道走行」に切り替え、車道が危なそうだと歩道に戻るという一番危険な行為を平気でやるようになった。最悪のケースは、歩道をクルマと逆の方向に走っていて車道に飛び出す行為だ。急に飛び出されたバスが急ブレーキをかけ、乗客が車内で転んで怪我をすると運転手の責任が問われるということも数例報告されるようになった。
飛び出す方の自転車は、バスなどとの距離を見計らっているから、たいていはうまくすり抜ける。あるいは、同じ方向に走っている場合には、本来の車道左側に出て行くのは当然、とばかりに後ろから来るバスなど眼中にないかのように出てくる。車道上では強者側に回避義務があるから、急ブレーキや急ハンドルを余儀なくされる方はたまったものではない。自転車はマナーが悪い!という大合唱となり、ルール遵守をむねとするサイクリストまで険しい目で見られる羽目に陥った。
そこでナンバープレートである。ナンバーで運転者が特定できれば責任追及が可能になるし、そもそも乱暴な運転をしないだろうと言うのである。これがきわめて短絡的なアイディアであることは多くの識者が指摘しているので改めて反対の論拠を列挙することはしないが、視認できるサイズのプレートを自転車のどこに付けるのか、そもそもナンバープレートが付いているのにクルマの違法駐車や不法な運転が無くならないことをどう考えるか、という原点の議論がまじめに行われたとはとても思えない。とにかく自転車はマナーが悪い、なんとかしなければならん、という少々ヒステリックな意見が台頭し、こうしたことを引き起こしている背景や社会心理については一考だにされていない。
突き詰めていけば自転車はどこを走るのかという原始的な命題に行き当たる。車両なのだから車道左側だ、と警察庁は通達を出したが、そんな危ないことができるか、という一般の声は根深い。だが、安全だと思い込んでいる歩道通行が、出会い頭の事故の要因になっていることは以前から指摘されていたし、諸外国では「自転車利用者の安全のために」歩道通行が禁止されていることもようやく知られてきた。
まずは車道左側に自転車のマーク(ピクトグラム)と方向を示す矢印を「クルマのドライバー」から容易に視認できるよう描くこと、そしてその現場で自転車の走り方やクルマの安全運転啓発を行うことだ。特に交差点での出会い頭事故が多いのだから、交差点でそのように走行すれば良いのか一見してわかるようにすることが重要だ。ドイツなどの自転車先進国では直線道路の自転車レーンは白線一本なのに、交差点には目立つ色でまっすぐに通行部分が指示されている。決してクルマから見えにくい位置に設置することは無い。警視庁のナビマークや金沢市の自転車通行指導帯など、法定外の表示も増えて来たが、まだまだクルマへの遠慮がある。
経済を支えるクルマの円滑な走行のためには歩行者や自転車が少しくらい危険であってもやむを得ないと考える「クルマ脳」の人たちが主導権を握っている限り、通学路を抜け道に使うクルマの犠牲になる子どもたちを守ることはできない。自転車を利用する私たちと自転車業界との共通の課題は、この「クルマ脳」という国民的風土病との怒りを込めた闘いなのである。

【季刊誌「PARKING TODAY(ライジング出版)」より改訂して掲載】
 

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