2014年06月16日(月)
【自活研・小林理事長の自転車コラムその41】~子どもたちのお手本になるという大人の責任~
2013年の7月、神戸地裁が小学校5年生の児童が自転車で高齢の女性にぶつかって意識不明の重症を負わせた事件について、被害者側に3,500万円、被害者に傷害保険金を支払うことになった損保会社へ6,000万円、計9,500万円の支払いを加害少年の母親に命じた。2008年9月の夜、神戸市で、歩道の無い坂道をマウンテンバイクのような自転車で駆け下りていた当時10歳の少年が、知人の散歩に付き添い中の当時62歳の女性に衝突し、女性は頭の骨が折れ、現在も意識が戻っていないという。
まず、マスメディアは9,500万円という高額賠償に着目した。次に刑事訴追を免れる子どもでも民事賠償からは逃れられないことをクローズアップした。結論としては、親がしっかり教育しろ、自転車は危ない、というところに落ち着いた。保険会社が加害原因者に損害賠償を求めて認められたことについては、ほとんど触れられていないが、広告出稿が多いことと関係がありそうに思うのは勘ぐり過ぎだろうか。
前方不注意の責任はたしかに子どもにある。13歳未満の子どもには保護者がヘルメットを装着させる義務(罰則は無い)があるが、ヘルメットはかぶっていなかった。これも、親がきちんと子どもに安全な自転車の乗り方を教えていなかったという一種の情況証拠になったらしい。
近年、自転車事故の高額賠償判決が増えているが、そのほとんどの加害者側は自己破産に追い込まれ、子どもたちは破産家庭から社会に出て行く過酷な運命を背負わされる。被害者側はもっと悲惨だ。裁判が決着しても、時には入院費分すら支払われず、莫大な借金を抱え、二重の苦しみを強いられる。
これらの事件は特別に悪質なことをして起きたのではない。自転車で歩行者と同じ気分で走っただけのことだ。その行為そのものが悪質で危険きわまりないことを認識している人が少ないなかで、誰にでも、どこの家庭にでも起こりうる悲劇であることを強調しておかなければならない。
だが、批難や叱責を覚悟であえて問いたい。真の加害者はいったい誰なのか。
法律は、子どもであっても高齢者であっても歩道【等】を通行するときは歩行者優先で徐行し、歩行者の通行を妨げるときには一時停止と定めている。通行可の標識があっても、そこは「徐行」が原則である。【等】というのは狭い道の車道部分に白線を引いただけで歩道がわりに使うことになっている「路側帯」のことだ。同年12月に改正道交法が施行され、路側帯では自転車も車道を行くクルマと同じ左側一方通行が義務づけられた。中途半端とはいえ一歩前進と言わざるを得ない。本来は歩道も路側帯も自転車通行禁止でなければならない。
根本にあるのは、この子も母親も自転車が車両であり、クルマと同じように生命を乗せ、事故を起こせば一生を左右する大事になるという意識を持てない環境におかれている現実だ。
わが国には、多くの先進国にある「子どもの自転車は歩道通行が義務」という規定がない。
車道を自転車らしく走るには、ある一定の年齢に達する、と同時に大人としての義務と責任を認識するというけじめが必要なのである。
しかし、わが国では、子どもでなくとも歩道を走る。その上、大都市の警察官は自転車通行可の歩道を走る。警察官の側は「歩道ではおまわりさんのように歩行者に注意して徐行し、危ないときには一時停止するんだよ」とメッセージしているつもりだろうが、これを見た子どもたちは「自転車は歩道を通るもの」としか思わない。親がいくら注意し、交通安全教室で学ばせても、街なかでほとんどの大人がやっていることを、子どもたちが真似しないはずが無い。子どもたちの勘違いは、私たちが毎日見せている悪いお手本が育てているのである。
真の加害者は、言うまでもなく私たち大人である。
正しい自転車の使い方ができないまま放置しておいて、子どもと母親の責任を追及する裁判所と私たち自身に、自省を込めて聖書の言葉を送りたい。
「まず罪なき者、石もて打つべし」
【月刊サイクルビジネスより改訂して再掲】