COLUMN コラム

【自活研・小林理事長の自転車コラムその54】~ノーブレーキの自転車についてまたまた考える~

 割れ窓理論というものがある。
米国の犯罪学者が唱えたものだそうだが、人間の流されやすい心をうまく説明している。
ガラスの割れた窓を放置しておくくらいで街全体がスラム化してたまるか、と思うのだが、逆をやると実際に治安が良くなったというからバカにはできない。
実行したのは、ニューヨーク市長時代のジュリアーニ氏である。
市の予算で、管理できなくなった民間のビルの窓ガラスを修繕した。
我が国であれば、公金の私的流用で検挙されそうな行為だ。
割れ窓が見当たらなくなった街では不思議なことに、荒れ果ててスラム化し、犯罪が多発していた地域が一年足らずで驚異的に改善された。
つまり、割れたままになっているガラス窓は、「他の窓も割って良いよ」というメッセージであり、そのビルや地域が見捨てられた場所であるという看板に他ならない。
まともな人々はそんなところには近寄らず、そうでない輩にとっては社会の規範に縛られない野放図がまかり通るジャングルに思えたのだろう。
割れ窓をふさぐ行為は、そこが法治国家の支配下にあるという宣言なのである。
ニューヨーク名物?であった落書きだらけで、ひとりで乗るのは危険と言われた地下鉄の車両を清潔に保つために税金を注ぎ込み、15年後の今では女性や旅行客も安心して乗れる環境になっている。
考えてみると、日本の私たちのすぐ身近にも好例がある。
ものすごい人口密度で、血の気の多い若者だらけにもかかわらず、ディズニーランドやディズニーシーで暴動は起きない。
小さなゴミもさっさと片づけるから、客も汚さないよう自然に気をつけるようになる。
長時間の行列にイライラし、切れそうになる神経を落ち着かせるのに、ゴミひとつない環境が役立っている。
秩序を維持するのに必要なのは、無秩序を看過しない人々の心なのである。
千代田区が歩きたばこやポイ捨てを禁止し、数千円の過料を定めたのも、この理論に基づいているのではないだろうか。

 逆もまた真なり、が通用するなら、昨今の我が国のさまざまなほころびは、もっとも安全な先進国と言われた日本の神話が遠からず完全な伝説になることを意味する。
社会が崩壊する引き金を身の回りに捜すことは難しくない。割れ窓のように一見些細な破綻を放置しておくと、それがあたりまえのように思えてくる。たとえば自転車の乗り方である。
歩道を暴走すれば危ないと誰もが思っているのだが、厳し過ぎる罰則と訴追手続きの煩雑さ、たかが自転車と軽んずる心などさまざまな理由でずっと取り締まらずに放置されてきた。
統計を見ると2003年、04年に無灯火で検挙された自転車は全国で一件もない。
外国人が児童虐待と揶揄するママチャリの子ども二人乗せは、長年黙認されていたものを、安全性が高い子ども乗せ自転車は合法、そうでない自転車も当面は検挙しない、ということになった。
人々はルールを知ってか知らずか、脱法行為を堂々と犯しながら警察官の前を通りすぎる。
ケータイしながら、メールしながら、傘さし運転、車道逆走、二人乗り、並進・・・交通安全キャンペーン中でもなければ、これらの脱法行為は見過ごされてきた。
事故を起こしたり、警察官に逆らったりしなければ、せいぜい注意されるだけで、検挙されることはまずない。
割れ窓だらけだから、ついに信号無視はあたりまえになった。
自転車は、いまや歩行者以上に自由自在に動き回ることができる迷惑の元凶だ。
アンケートをとると、驚くほど多くの人たちが自転車との接触事故の経験を答えるが、そのほとんどは警察に通報すらしていない。
窓ガラスが割れたままなので、警察が直してくれるとは誰も思わないのだろう。

 トラック競技や競輪などで使うブレーキのない競走用自転車を、街なかで乗り回すバカどもが増えた。
中国などから通販経由でやってくるフル電動自転車も増えた。
本来は原付バイクとして安全装備が必要で、運転するには免許が要るが、外見は合法の電動アシスト自転車と見分けがつかないものが多い。
気がつかないから警察官は注意も取り締まりもしない。
赤信号みんなでわたれば怖くない、はけだし名言である。
割れ窓が普通になった社会で育つ子どもたちは、駅前に放置された自転車をちょっと拝借することを犯罪だと思わない。
自転車泥棒は日本でもっとも多い犯罪だが、検挙される犯人の6割が少年である。子
どもたちの心の中の窓ガラスを割れたままにしておいては、ろくなことにならない。
ルールはあるが、守らなくても見つかりさえしなければ大丈夫、というのでは住みやすい社会などつくれない。
発覚しなければ、犯罪が証明されなければ常識的に筋が通らないことも問題ない、とうそぶく政治家や官僚のふるまいがテレビで報じられるが、悲しいことに子どもたちはちゃんと見ている。
学校で交通安全を習うと、一緒にいる母親に信号は守ろうね、と呼びかけるのだが、いつのまにか大人たちの割れ窓を見習うようになる。
年金医療が充実し、子育てや高齢者・障害者自立支援が行き届くことは大歓迎だが、危険な通学路、背後から忍び寄る暴走自転車におびえながら歩かなければならない歩道の実態を見て、日本は文明国だと思う人の目は壊れている。

 違反さえしていなければ、危険を振りまいてもかまわないという野蛮な国にしてはいけない。
そんな暮らしにくい社会をつくることに加担する自転車店を見ると、腹が立つ。
車両に突起物があってはいけないという法律があるのに、傘を取り付ける器具を平気で売る。
自分も他人も怪我をさせるかもしれない可能性があるのに、ライトもブレーキもついていない自転車を売る。
せめて、正しい乗り方を教えるくらいは義務ではないか。
まず、自分の心の中にある割れ窓を修繕することだ。
と書きながら周囲を見ると、ちょっと置いておこう、と積んだ書類が散乱して足の踏み場もない。
人の心はかくも弱いものなのである。

【季刊誌「PARKING TODAY(ライジング出版)」より改訂して掲載】

 

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